2008年10月14日

parting。


ここのところ毎日誰かに別れを告げている


五年間で築き上げたものは、友情と、友を友と呼べる自分の正直な心
悲しいのは、信頼しあえる友と離れ離れになることではなくて
もう会うことがないかもしれないと、ふと思ってしまう自分


この一年、なぜかものすごく自分が外に向いていて
それだけ人との関わりが深いものだったような気がする
それは、今年でとりあえず日本へ帰るという心持があったからか
歳のせいか、はたまたそういう時期だったのか
よくはわからないけれど、本当にいい年だった



自分は人がどうしようもなく好きなんだということを
あらためて実感した


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2008年04月19日

いい日。

kitchen2.jpg

今日はなかなかいい日だった。
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2008年04月17日

コネティカット。

shoe.jpg

さて、コネティカットという言葉を知らずに23年間過ごしてきましたが、この歳になって突然ろんなところでその名に出会うことになるとは。

まず、二人の友達がコネティカットに住んでいました。
そして今読んでいる本にたくさん出てきます。

気になる。


***


昨日ケンブリッジからロンドンに帰ってきました。
そしてジェラルディンのだんなさんが家に来て、ドローイングを一枚
エッチングを二枚買ってくれました。プラスストラウドで売れた分の小切手が届き
ちょっとだけ金銭的に裕福な気持ちのわたし。希有。

上の写真はエッチングのうちの一枚。
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2008年04月10日

アルゼンチンババア。

今日友達から借りっぱなしのよしもとばななのうちの、アルゼンチンババアを読んだ。ボリュームの少なさと相反して、描きたかったんだろうな、という内容は膨大だった。ある意味かなり潜在的?な文章だった。

多くのファインアーティストもそうなんだけど、ある程度の量の作品を作ってしまうと、自分の中でかなりのことが解決してしまう(ように思えてくる)ようで、次第に自分の言葉で作品を作るようになる。そうすると、リーダーやビューアーの理解が行き届かないという自体が生じる。だから作者の晩年の作品に出会ったとき、彼らの初期の作品も同時に体験するといいと思う。

ただ晩年にいたってもなお、初期の精神を保ち、言葉の意味の潜在性を保ったまま、すべての作品の中でその意味を探ろうとしている作者もいる。そういう人の作品は、その作品の中で言葉の意味が形成されていくのでその作品だけで完結できる。

ただ一つ思ったことは、作者にはそれぞれのタイプがあり、例えばそういう個人的なシンボルの使用で作品を活かす作家もいれば、常に意味を探し続けることで作品が活きてくるという作家もいる。よしもとばななの場合は、どうも後者のほうらしい。
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2008年03月19日

暴力。

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080318-OYT1T00636.htm
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080318-OYT1T00153.htm
http://mainichi.jp/select/today/news/20080319k0000m030086000c.html http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080317-OYT1T00487.htm


ダライラマ14世は著書でこう記す。Violence begets violence。これは争いが起こるたびに、そしてそれが静まるたびに、なんどもなんども繰り返し叫ばれていた言葉。そして、多くの人が、それは理想論であり、きれいごとである、現実味にかけるという。けれど彼は、it is far more naive to suppose that the human-created problems which lead to violence can ever be solved through conflictと考える。

それでもやっぱり戦争が起きてしまうのは、平和、均衡というものを保つことが、人間として、またヒトという動物として、行動するのが一番難しいことだからではないか。多くの人が獲得しようとしている'世界平和’というのは、必ずしも結果としての世界平和ではなく、一人ひとりの中に存在する均衡を保つための途方のない努力と意志の力なのだ。

目の前で妻を犯され、子どもを殺され、両親や家族を生きたまま焼かれて、それでもその憎しみを自分の中で解消し、その目の前にいる人間を持っている銃で撃ち殺すチャンスを放棄できるか。わたしはそんな自信ない。気が狂ってその人間を殴り殺してしまうかもしれない。それが人としての、自然な心の働きであるから。その現状に立ってなお、自分の中に生まれる憎しみを制御する意思の力が、ヴェイユの説くところの、重力に逆らう翼なのだ。そしてダライラマが今までの生涯を通じて人々に伝えようとしてきたのは、そういうものすべてを包括した意味での、非暴力、なんだろう。


悲劇なのは、今、このチベットという国で起きている現実の争いの前で、ダライラマが非暴力を説いても、その言葉を受け取る側の、その真の意味受け入れる余地がない限り、その言葉はただの生易しいきれいごとになってしまう。言葉は、受け取る側の中に真意が存在するから。


すべてが始まってしまった後に、言葉は通用しない。これもまた、ナウシカで出てきた、蟲たちの赤い目を、青に戻すことが不可能になったときのように。蟲笛も閃光も、人々の怒りの前では通用しない。憎しみや苦難の前ではダライラマの言葉は無力に近い。一人ひとりの人が平和の本当の意味を理解していない限り。


こうしてことが始まってしまった以上、わたしたちにできることは今、潰されかけた眼をみひらいて、今起きていることをできる限り、偏見のない視力でみつめることだと思う。戦争がどうやって起こるのか、誰が何を願い、欲し、誰がその犠牲となっていくのか。国家、というイメージが、どれだけ個々の人々の間で、意味のない差別や暴力を生むのか、チベット人とは誰か、中国人とは誰か、チベットとは、中国とは、国とは、何か。その象徴やら付加アイデンティティやらが、どれだけ深く人々の心にしみこんでいるのか、またそれがどういう風に人を動かすのか。


わたしは今まで、これほど深く戦争について考えたことはない。ただ、平和は大事だ、みんな仲良くしよう、誰も殺さなければ、誰も殺されない、そういう、あいまいな考えがたまに浮かんでは消えていただけだった。そうして何かことがあるたびに、無意識に耳を塞ぎ、目を瞑ってきた。見ざる聞かざる言わざる、という感じだった。

けれど今回のことはわたしがダライラマの倫理の本を最近読んでいたことと、その本の翻訳が友人宅でなされたことがあって、とても人事としておけなかった。そうして考えているうちに、戦争というものがいかに計画的に、人民の意思に関係なく勃発しうるのかを感じた。だからといって平和の旗を掲げるわけじゃない、デモに参加するわけじゃない、誰を憎むわけじゃない、ただ、均衡を保つということの真意を、本当に深く考えさせられた。そして、暴力と憎悪と苦難と、それらが招くまた次の暴力を。

今ロンドンで'中国'と'ロシア'の大規模な美術展がいくつか行われている。それが何を意図されてのことかは、わたしにははっきりとはわからないけれど、それらの展示が人々に与えるプロパガンダの力は否定できない。

暴力とは、結果として起こる物理的なものだけをさすのではなく、それを喚起するイメージも、驚異的な暴力であることを忘れてはいけない。そのことも、今回のことで強く思った。

暴力をコントロールすることは不可能に近いように思われる。それでもダライラマの精神の下、今まで苦難に耐えてきたチベットという国で起きた今回の暴動。やりきれない思いが募る。

もしも今回ダライラマが退位したとしても、彼の意思と精神がより多くの人に受け継がれることを願う。

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2008年03月16日

暴動2。

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080316-OYT1T00024.htm
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-30847320080316


これら二つのニュースを比べるだけでも、どれだけメディアが流している情報があいまいなものかがわかる。そうして現場を他国の目から遠ざけることによって真実は覆われようとしている。

過去におこった満州事変を思い出しても、世界の大戦というものが、本当に小さな事件を発端として開始されうることがわかる。今度のチベットの暴動もまた、大きな爆発のための点火に過ぎない。何とかこの火種を火種のうちに消し去る方法を見つけない限り、おそらくはまた多くの罪のない人々の死につながるだろう。

これは人々の心に眠る強い愛国心、正義感を見事に利用しようとする本当に残酷な政治的犯罪なのだ。戦争は国と国との、州と州との戦いなどではない。戦争はあらかじめある種の人々の間で計画され、実行される。そうして犠牲となるのはいつも現状に暮らす人民なのだ。

映画風の谷のナウシカで、一匹の蟲の子を傷つけることで他の蟲たちの怒りを喚起し村を襲わせるという陰謀を思い出してみると、とてもわかりやすい。

今回のことは、本当に人間の醜さ、愚かさを思い知る事件である。

http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7299132.stm

ダライラマはそれでも中国で開催されるオリンピックを支援することを提唱している。オリンピックで中国に平和への意思を表示する場を提供するために、と。彼は知っている。中国内にも多数の平和への賛同者がいることを。そして、オリンピックをボイコットすることはすなわち、そういった人々の意思を表明するチャンスを奪ってしまうことになるのだということを。

戦争を仕掛けているのは国ではないことを、わたしたちは十分に承知しなければならない。中国、という国そのものを否定することは本当に危険で愚かなことだ。国とは、人々の集まりであり、決してごく少数の人間の意志のリプリゼンテーションではない。わたしたちが諌めるべきは、今起こっているこの人々の犠牲と愚かな人間同士の奪略行為である。

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080315-OYT1T00373.htm

このように一つの国のシンボルを背負っての行為はまた別のイメージをそのシンボルに追加することである。そのイメージはまた次のイメージを喚起する。プラス、そのイメージをメディアの力で歪ませることは'彼ら’にとっては簡単なことなのだ。悲しいことに、これらのメディアをコントロールすることは不可能に近い。そうして人は暗闇の中ではスポットライトを照らされた部分しか見ることはできないがゆえに、人々の中の既成概念(外界に作られた)は膨れ上がってゆく。

戦争を計画するのはごく少数でも、遂行するのはそういった視野を奪われたたくさんの人々である。

もしも人々が、その暗闇の中で、照らされていない部分を意識することができるなら、それを見ずしてもなお、そのほかの部分の存在を知ることが可能なのではないか。その存在自体を知ることは不可能だとしても。



posted by coco at 16:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

暴動。

http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/asia/article3559355.ece
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080316-OYT1T00024.htm

あまり政治的な話題に直接触れることはないわたしも、やはり考えるところがあるこのチベットでの暴動。政治的背景、コンスパイラシー、そして冷徹なプランニング。そういうものを連想してしまうのが怖くて、なるべくオブザベーションに徹するようにしているのだけど、個人的にチベットには思いいれがあるので、この暴動が次の犠牲に繋がらないようにただ願わずにはいれない。


暴力に対する恐怖が次の暴力を生み、憎しみが次の憎しみを生むその連鎖の、きっかけを作るのは本当にたやすい。それが人間の持つ自然の性質であり、ヴェイユが言うGravity−重力だから。そして、その重力に立ち向かう精神を持ったダライラマはきっと、最後まで相手を受け入れようとするだろう。そして、それがかなわなくなるとき、彼は自身を捧げるだろう。彼がどれだけ今まで、すべての調和と均衡のために祈ってきたことか、わたしには想像すらつかないけれど。


各国の政府がこの暴動にたいして言葉を濁していることを、人はいろいろな解釈でとらえているけれど、濁さずにはいられないんじゃないかな。何を責めるわけにもいかない。何かを攻めてしまった時点で、争いは始まってしまうし、火種の主の意のままになってしまう。


それは動き出したらもう誰にも止めることはできない。だからこそできるだけ多くの人が、そのことについて深く理解し、他者のために何ができるのかを考える機会を持つべきなんだろう。

この暴動を鎮めるためにできるだけ多くの力が働くことを祈って。



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quote。

人が力に屈服し、人格を失ってしまった状態を不幸という。

真の愛は不在として絶対の対象を求める。

-Weil

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2008年03月15日

ピアノを弾く人。

今日クラスメートのクリストファルと話をしていて、彼がピアノ弾きだということが判明した。しかも彼は粘土でポット作ったりそれに色を塗ったり、本読んだりものを書いたり、その傍ら週末にハイゲートパークでガーデナーの仕事をしている、なんともほのぼのとしたいい人だ。彼の作品は流行のアートには程遠いけれどもなんともオリジナルで、すごく古臭い感じがなんともいえない。

最近、行動が人格を形成するか、ということをよく考える。プリントメーカーに共通する性質、ピアニストに共通する性質、数学者に共通する性質など。長年の経験がその人の性格さえ変えてしまう、というよりもむしろ、作り上げるようだ。

ピアノを弾く人は、比較的根性があるように思う。ローマは一日にしてならず、ピアノを弾くには根気やら忍耐やらがいる。何度も何度も同じ曲を繰り返し練習して最後にやっと自分のものにできたりできなかったりする。そういう過程を通ってきた人はみんな、practice makes perfectっていうことばを身をもって知っている気がする。


結局、何をするにあたっても経験と時間は強いんだろうとわたしは思う。継続は力也。ピアノを続けたことによって得たものは、弾ける曲目やテクニックだけではなく、ただ、何をどう弾いてきたか、それによって何を感じ、何を学んだかが大事なんだろう。そしてそれは、すべてのことに通じることなんだろう。自分が精神をささげてきたものは何らかのかたちで現在の自分を形成する要素となっている。無駄なものなど何一つない。


クリストファルの絵は、オシャレではないけれど人に訴えかけるなにかがある。それは、たぶん彼が今までいろんな方法で磨いてきた感性の集大成的なものだからかもしれない。

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2008年03月12日

旅と目的地と。

ある種の人々は、長い時間をかけてなにか、彼ら自身の答えのようなものを探しながら生きていて、彼らの中には、その都度道筋をかきとめておこうとする人たちがいて、その答え探しの道のりの記録やらを、そして、それが地図となり、そうやっていくうちに、だんだんと答えのようなものに近づいていく。そしてある時期、ふとその答えのようなものが見えた気がして足を止め、空を見上げ、心に沁みてくるその感じを味わう。何を思うでもなくただ、ああ、そうだ、と、涙を流したりする。

そうして、わかってしまう。

わかってしまったとき、彼らはかくことをやめるのか。やめなかったりする。ただ、みつけたその答えをしるしておこうと思う。そうして、たどり着いた場所をかき記してみるのだけれど、どうもおかしい。うまくいかない。かけるのだけど、そして、その内容も自分がわかったことなんだけども、どうも、何かが欠けているような気がする。探している途中でかきとめていた地図やら記録やらにあった何かが。



それはまるで、庭の端から端までを横断する蟻のような、そうして向こう端にたどり着いたとき、その蟻が人になるような、そして見渡してみると、なんだどうして、小さな庭が広がっているだけ。


posted by coco at 04:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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