http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080318-OYT1T00636.htm
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080318-OYT1T00153.htm
http://mainichi.jp/select/today/news/20080319k0000m030086000c.html http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080317-OYT1T00487.htm
ダライラマ14世は著書でこう記す。Violence begets violence。これは争いが起こるたびに、そしてそれが静まるたびに、なんどもなんども繰り返し叫ばれていた言葉。そして、多くの人が、それは理想論であり、きれいごとである、現実味にかけるという。けれど彼は、it is far more naive to suppose that the human-created problems which lead to violence can ever be solved through conflictと考える。
それでもやっぱり戦争が起きてしまうのは、平和、均衡というものを保つことが、人間として、またヒトという動物として、行動するのが一番難しいことだからではないか。多くの人が獲得しようとしている'世界平和’というのは、必ずしも結果としての世界平和ではなく、一人ひとりの中に存在する均衡を保つための途方のない努力と意志の力なのだ。
目の前で妻を犯され、子どもを殺され、両親や家族を生きたまま焼かれて、それでもその憎しみを自分の中で解消し、その目の前にいる人間を持っている銃で撃ち殺すチャンスを放棄できるか。わたしはそんな自信ない。気が狂ってその人間を殴り殺してしまうかもしれない。それが人としての、自然な心の働きであるから。その現状に立ってなお、自分の中に生まれる憎しみを制御する意思の力が、ヴェイユの説くところの、重力に逆らう翼なのだ。そしてダライラマが今までの生涯を通じて人々に伝えようとしてきたのは、そういうものすべてを包括した意味での、非暴力、なんだろう。
悲劇なのは、今、このチベットという国で起きている現実の争いの前で、ダライラマが非暴力を説いても、その言葉を受け取る側の、その真の意味受け入れる余地がない限り、その言葉はただの生易しいきれいごとになってしまう。言葉は、受け取る側の中に真意が存在するから。
すべてが始まってしまった後に、言葉は通用しない。これもまた、ナウシカで出てきた、蟲たちの赤い目を、青に戻すことが不可能になったときのように。蟲笛も閃光も、人々の怒りの前では通用しない。憎しみや苦難の前ではダライラマの言葉は無力に近い。一人ひとりの人が平和の本当の意味を理解していない限り。
こうしてことが始まってしまった以上、わたしたちにできることは今、潰されかけた眼をみひらいて、今起きていることをできる限り、偏見のない視力でみつめることだと思う。戦争がどうやって起こるのか、誰が何を願い、欲し、誰がその犠牲となっていくのか。国家、というイメージが、どれだけ個々の人々の間で、意味のない差別や暴力を生むのか、チベット人とは誰か、中国人とは誰か、チベットとは、中国とは、国とは、何か。その象徴やら付加アイデンティティやらが、どれだけ深く人々の心にしみこんでいるのか、またそれがどういう風に人を動かすのか。
わたしは今まで、これほど深く戦争について考えたことはない。ただ、平和は大事だ、みんな仲良くしよう、誰も殺さなければ、誰も殺されない、そういう、あいまいな考えがたまに浮かんでは消えていただけだった。そうして何かことがあるたびに、無意識に耳を塞ぎ、目を瞑ってきた。見ざる聞かざる言わざる、という感じだった。
けれど今回のことはわたしがダライラマの倫理の本を最近読んでいたことと、その本の翻訳が友人宅でなされたことがあって、とても人事としておけなかった。そうして考えているうちに、戦争というものがいかに計画的に、人民の意思に関係なく勃発しうるのかを感じた。だからといって平和の旗を掲げるわけじゃない、デモに参加するわけじゃない、誰を憎むわけじゃない、ただ、均衡を保つということの真意を、本当に深く考えさせられた。そして、暴力と憎悪と苦難と、それらが招くまた次の暴力を。
今ロンドンで'中国'と'ロシア'の大規模な美術展がいくつか行われている。それが何を意図されてのことかは、わたしにははっきりとはわからないけれど、それらの展示が人々に与えるプロパガンダの力は否定できない。
暴力とは、結果として起こる物理的なものだけをさすのではなく、それを喚起するイメージも、驚異的な暴力であることを忘れてはいけない。そのことも、今回のことで強く思った。
暴力をコントロールすることは不可能に近いように思われる。それでもダライラマの精神の下、今まで苦難に耐えてきたチベットという国で起きた今回の暴動。やりきれない思いが募る。
もしも今回ダライラマが退位したとしても、彼の意思と精神がより多くの人に受け継がれることを願う。